ウィリアム・エグルストン(1939〜)はテネシー州メンフィス出身の写真家で、「ニュー・カラー」と呼ばれる、1970年代にカラー写真が芸術として認められるようになった最初の世代のひとりとして知られている。ニューヨーク近代美術館で1976年に開かれた個展『William Eggleston’s Guide』は世界初のカラー写真の展覧会だった。
梅雨に突入するかどうかという六月のはじめ、注文していたウィリアム・エグルストンの写真集『At Zenith』(シュタイデル社、2013年)が届いた。1979年に少部数で発行された「ウェッジウッド・ブルー」というシリーズの再編集販である。その名のとおり陶器の塗料のような青い布がはられたうつくしい本で、エピグラフにはアイルランドの詩人ウィリアム・バトラー・イェイツの詩 “He Wishes for the Clothes of Heaven” が引かれている。あとはぜんぶで33枚の空、空、空……。
写真家は車で移動しながら、テネシー、ジョージア、アラバマ、ミシシッピといったアメリカ南部の夏の空を撮っている。だが場所を特定するキャプションはないし、ほぼ真上に向けて撮られているので地平線もない。夜明けや日没もなく、雲が青空にまちまちの割合で混ざっている。抽象性のきわめて高い、世界中だいたいどこに行っても似たような空はあるだろう、という断片があるばかりだ。かれが街を歩きながら撮影する映像を見たことはあるけれど、現像とプリントの過程についてはよくわからない。でも『At Zenith』の写真を見ていると、そのプロセスにおいてもなにかが起こっているのだと思わずにはいられない。雲が途切れるもっとも淡い境目を見せ、あるいは想像させる色調である。
ウィリアム・エグルストン三世による巻末の短い解説によれば、これは写真におけるデモクラシーの試みである。いわく、デビュー写真集『William Eggleston’s Guide』(1976)の序文にもあるように、エグルストンの初期写真の多くには画面の中央にオブジェクトがある。写真家本人によれば、それを中心にしたバツ印の構図は南北戦争時代の南軍の旗(コンフェデレート・フラッグ)が意識されてもいる。だが『At Zenith』にある写真はそれとまったく異なるものだ。これら空の写真においては、ある要素が他の要素から突出することがない。この「特権的な要素のなさ」が写真におけるデモクラシーだろう。エグルストン三世は、この空が撮影された時期に続いて作られた作品集のタイトルが『Democratic Forest』であるとも述べている。『At Zenith』にはエグルストンの写真の変化の兆しを見出せるのだ。
それでもかれの写真に一貫してあると思うのは、よくあるもの、という感覚だ。エグルストンの初期写真は、地域性が濃厚でありながら、それを撮るものにとってはふつうに暮らしている場所なのだとわかる。その視線の質みたいなものが伝わるのか、エグルストンの写真には、こんな場所があるのか、と感じさせるだけでなく、じぶんの暮らしている場所をどう見るかを考えさせる。数年前に僕にエグルストンの存在を教えてくれた友人は最近まで学芸大学のそばで一人暮らしをしていて、陶器でできた聖母の像を捉えたエグルストンの写真のポストカードを、換気扇の下の空き缶が並んだ脇に飾っており、遊びにいくとよくその前で煙草を吸っていた。エグルストンならこういうなんでもない空き缶と写真スタンドを撮るだろう。空のもっともありふれた表情を捉えるのは、やはりエグルストンの写真だと感じる。
梅雨のあいだはひとりで眺め、晴れの日の感じを思い出していた。だがこの写真集の奇妙さがわかるのは梅雨が明けてからである。雨がおさまっていくらか安心して本を持ちだせるようになると、こんどは大学の友人とふたりで見た。カフェで向かい合わせに坐り――空を見上げる写真集だから「天地」はない――ぱらぱらめくる。しかし、まさにこの写真のような空のある日に、似たような空の写ったページを前にして、本にコーヒーをこぼさないよう神経を使いながら、ふたりして狭いテーブルに身を乗り出して眺めているのはなんだかおかしい。
だがもちろん、空と空の写真は違うのである。かたや流動し、かたや不動である。かたや水と空気で、かたや紙でできている。かたや全体であり、かたや断片である。そもそも、写真家がカメラを向けた先にあったものと今日見上げるとそこにあるものは、ひとくちに空と言っても、本来異なるものだ。ひとつとして同じ状態のない空だけれども、だからこそ、いつ、どこにあっても同じようなものに思える。
『At Zenith』の写真はほんものの空と違って動かず、紙でできていて、断片であるけれど、やはり空のようなところがある。視線を落ち着ける先がなく、まるで空を眺めているようにぼんやりするのである。そして空と、空のようだが空ではないものについて、いろいろな考えがよぎっていく。いわばじっくりとぼんやりできる本だ。こんなふうに流れる時間は不思議だが、有り難い。