2019年8月14日水曜日

2019年8月14日

20190814

桑垣孝平の中編小説「Doomed Kids」(第十回小島信夫文学賞受賞作)を読んだ。
タイトルを見ていちばんに思い出したのは、第一次世界大戦に従軍した英国の「戦争詩人」ウィルフレッド・オーエンの詩、「Anthem for Doomed Youth」(死すべきさだめの若者たちへの賛歌)で、「家畜のように死んでいく彼らへの弔いの鐘はどんな音?」と、戦場で銃弾に倒れていく若者たちのことをうたっている。「Doomed Kids」もまた、酷薄な状況に倒れていく若者たちへの挽歌のようなところがある。
一九九七年、カナダの公立高校に留学した十七歳の日本人・瑞希夫(みきお)は、カナダで知り合い、急死した同世代の友人・ダニエルの葬式に出席している。そこへ瑞希夫とダニエルの共通の友人・デイヴィッドがやってくるが、彼はダニエルの父親ジェイに乱暴に追い返されてしまう。ある事情から、デイヴィッドはまねかざれる弔問客だった。友情で結ばれていた三人はばらばらになり、残された瑞希夫は、ダニエルとデイヴィッドと出会った町を出立する。どうしてこんなふうになってしまったのだろう?
ダニエルとデイヴィッドとつるんでいたときのことを思い出す瑞希夫の語りには、深い寂しさと混乱があって、取り返しのつかないことが起こったのだとわかる。でも同時に、瑞希夫の視点を離れて、ときにはダニエルやデイヴィッドの内面にも立ち入って「過去」のエピソードが語られるときには、「過去」の出来事であっても、いままさに起こっていることに立ち会っているような読み心地がある。過去もまた、過去という状態でいまこのとき〈ある〉とでもいうような。
ある種の内気さ、他者への畏れ、また思いやりを持っている者が、つかの間確保された安全圏を突き抜けて、安全の欠如そのものであるような世界に触れるところまで、誰もが他人になってしまうところまで、進む。でも、最後に別れても、別れていなかった時間はその時間としてあり続ける、と感じられる。
どんな時空間の出来事でも、それをいま起こりつつあるものとして読み手に立ち会わせるのが、描写、なのだとすれば、あらゆる時間と空間にときおりあらわれる、透き通っているが実体はたしかにあるような太陽の、ネオンの、瞳の光、それを書き留めているのが「Doomed Kids」の語りだと感じた。回想のフィルターが挟まっているときだけ風景が輝いて見えるのではなく、過去、現在、幻想におけるあらゆる光が、いままさにそう光っている、そういうふうに、色々な光が描かれている。それが心に残った。光が「土砂降りの嵐のように」石畳に打ち付ける、というようなところが、そうだ。
地元のギャングの世界に取り込まれようとしている友人に「まだ間に合う」という。それは、その時点においては、どうなっても生きていればなんとかなる、の「まだ間に合う」に違いないけれど、最後まで読むと、「たとえ死別してもなお間に合っているもの」を問いかけるような感じもあった。