これまでに7枚のアルバムを出しているアメリカのインディーロックバンドOkkervil River(オッカーヴィル・リヴァー)は、すべてのアルバムのアートワークをWilliam
Schaff(ウィリアム・シャフ)という画家に依頼している。バンドのリーダーであるWill Sheff(ウィル・シェフ)が名前のよく似た画家と出会ったのは2000年代のはじめで、シンガーのウィルも画家のウィルもまだ20代だった。共通の友人の結婚式で出会った夜のことを、ウィル・シェフは「ウィリアム・シャフのアートワークについて」というエッセイで、こんなふうに書いている。
「ぼくたちはエルジェのコミック『タンタン』シリーズへの愛情を語り、友人や家族について語り、これまで住んできた土地について語り、そして二十代の後半にさしかかっても芸術を追求するのがどんな気分かということについて語り合った――それは仲間がどんどん定職に就く時期であり、とつぜん、おののきながら、受け入れる時期でもあった、だれもあえてそれにお金を払おうなどとは思わないことを自分がやっているのを、そしてそれでもなお、それだけがやりたいことだからという理由で、無謀にも、勇敢にも、進みつづけることになるのを」
2002年にリリースされた1枚目のフルアルバムからかれの絵が使われた(『Don’t Fall in Love With Everyone You See』)。動物の骨と人体と楽器が奇妙に混ざり合ったキャラクターは、奇怪ではあるけれど、ユーモアも感じられる。以降、ミノタウロスも連想させるような羊のキャラクターと奇妙な生き物たちの晩餐会(『Black Sheep Boy』(2005))や、獣の頭部を持った人物が向かい合っている図(『I Am Very far』(2011))、巨大な「鳥男」が家を背負い、中西部の田舎町を見下ろしている図(『The Silver Gymnasium』(2013))など、オッカーヴィル・リヴァーの顔となるアートワークは、アメリカのゴシックな表情をみせている。
アートワークに呼応するように、ウィル・シェフの書く曲は世の不気味さや残酷さに満ちている。シェフは歌う自分と歌詞の主人公のずれに意識的なシンガーで、つねに歌い手が語り手に憑依しているような側面があるのだが、憑依するキャラクターはたいてい、どこかで道にはぐれてしまったような人間だ。ウィル・シェフは、求め合いながらも互いへの負い目から断絶した母娘になり(「Red」/Live)、独りで迎えたクリスマスに別れた恋人が出演するテレビを見る男になり(「Calling And Not Calling My Ex」/Live)、みずからの命を絶った娘の日記を盗み見る父親になり(「Savannah Smiles」/Live)、血を欲してやりきれない夜を迎えた殺人鬼になる(「For Real」/Live)。
だが、歌の世界がただ沈鬱になることはない。2007年にリリースされたアルバム『The
Stage Names』には翌年にリリースされた『The Stand Ins』という姉妹編があり、ジャケットも対になっている。上下に並べてみれば、アルコールで身を持ち崩した人物が手を伸ばし、沼の底から伸びたその手が、陽の光を浴びている。オッカーヴィル・リヴァーの楽曲は、人生の暗部にすっかり取り込まれた人間ではなくて、そこで苦闘する人間を歌う。エモーショナルな声は、ひたすら自分について歌うならいたたまれないだけかもしれないが、べつのだれかに身をやつしたひとの情熱は、苦境に立たされたそのキャラクターを鼓舞するように響くものだ。
3枚目のアルバム『Black Sheep
Boy』(2005)リリースから十周年の節目におこなわれたインタビューで、ウィル・シェフは言っている。「あるひとは邪悪なものと戦い、子供たちに教え、世界を救う。ぼくは寄生虫みたいな芸術家気取りのくそったれだ。いったいなにができる? できれば、世の中を面白くして、ほんの少し苦痛を和らげられればと思っている。悲しみと苦痛と不当さはまぎれもない現実だ。だれにとっても事はうまく運ばない。人生はすごく不快なものだ。もしぼくにできることがあるとすれば、その重荷を軽くすることくらいだろう」
オッカーヴィル・リヴァーの楽曲とジャケットデザインの親密な関係を端的にしめすものとして、2枚目のアルバム『Down The River Of Golden Dreams』(2003)を挙げたい(いちばん上の画像)。ハモンドオルガン、ウーリッツァー、メロトロンといった鍵盤楽器がアルバム全体に、ほんとうに水のように流れつづけているのが特徴だ。タイトルの元になっているのはジャズのスタンダードの曲名だが、「river of golden dreams(黄金の夢の川)」というのはこれらの楽器の音のことではないか、と感じる。海の生物と人間が混ざり合ったキャラクターがあしらわれたブックレットを取り出して広げれば、この人物は靴のかわりにボートを履いて波乗りしている。しかしかれは完全に血の通った生き物の世界から離れてはいない。顔と手に差した赤みがその証拠で、別離や裏切りや戦争が歌われる楽曲のなかにも、この赤みがある。たとえば「Blanket & Crib」の語り手は、母親から与えられた言葉を引き合いに出しながら、だれかにこう助言している。
「そしていつだったか母が言った、『息子よ、これだけは覚えておいで、だれがなにをしようとも、かれらもかつては子供だったこと、おっぱいを吸ってよだれかけをしていたということ、毛布にくるまってベビーベッドにいたことを。だからあなた自身の内側に手を伸ばして、まだ助けを求めている部分を見つけ出し、それをまわりのひとの内にも見つけ出せれば、間違うことはないからね』だから僕はそうしようと思ってきた」
――みじめでも悲惨でも、すぐ幽霊や怪物になることはないのだ。
――みじめでも悲惨でも、すぐ幽霊や怪物になることはないのだ。
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"Love To A Monster"
Okkervil River