2015年8月6日木曜日

#2. 呉明益の連作短編小説『歩道橋の魔術師』のなかで、風景をつたえる人々

歩道橋の魔術師 (エクス・リブリス)


呉明益(ご・めいえき/ウー・ミンイー)による短編集『歩道橋の魔術師』(天野健太郎訳、白水社、2015)では、子供時代を1980年代前後の台北の商店街「中華商場」に暮らした人々が、30年ほどの時を経て往事を語る。各エピソードを一冊の本にまとめる「背」のようになっているのが、歩道橋で手品の道具を売る魔術師だ。それぞれの短篇の語り手は異なるのに、魔術師はほとんどすべてのエピソードにあらわれる。これはどういうことかといえば、魔術師を中華商場と分かちがたく結びついた存在と考え、魔術師にまつわる思い出を聞こうと取材する「聴き手」がいるということだ。

中華商場は1992年に解体されている。そういう意味では、スペインの作家フリオ・リャマサーレスによるこちらも忘れがたい連作短編集『無声映画のシーン』(木村榮一訳、ヴィレッジブックス、2012)に通じるところがある。少年時代を過ごした炭鉱町オリェーロスは炭鉱の閉鎖とともに荒れ果て、語り手のフリオはかつての風景を、数枚の写真を手がかりに語ることで蘇らせていく。だがフリオはその作業を基本的にはひとりでやる。

無声映画のシーン

いっぽう『歩道橋の魔術師』の語り手の多くは、中華商場というおなじ場所で子供時代を過ごしたひとを聴き手にして、商場の風景を立ち上げていく。「知ってるわよね。わたしは高校三年生になるまで、父といっしょにくらした」(「金魚」)「うちの古本屋のこと、もちろん覚えているだろう?」(「唐さんの仕立屋」)……視点は違うけれどおなじ時代と場所を過ごしたひとと話をする。過去はこうして、ひとりでは思いがけない細部を見出されてあらわれる。

この小説におけるひとの死は、気づいたら踏み越えているような軽さで、よく知っていた人々があっさりあちらに行ってしまうが、それぞれの語り手には、こちらにとどまり再会する同郷のひとが残されている。そのために生じる記憶の行き違いやほころびは、そのまま中華商場の失われたにぎやかさになる。失われたにぎやかさのためには、すれ違っていた人間を示せば十分なのだ。

                  ***

初夏に劇場で侯孝賢(ホウ・シャオシェン)の『恋恋風塵』(1987)を観ていたとき、スクリーンのなかにいるひとの髪が揺れたり、線香や爆竹の煙が流されたりしていくのを目にするたびに、ひとがそこにうつっていることや、そのひとの振る舞いが、そこに吹く風をほかにないやりかたでこちらにつたえていると感じた。人間がほかのなによりも偉いから人間が映画にうつっているべきだというのではなくて、見る者に風景をつたえる回路のようになった人間がそこに立っている。

恋恋風塵 -デジタルリマスター版- [Blu-ray]

読み出してすぐ『恋恋風塵』を思い出したのは、それが1980年代の台北を舞台にしているからというだけではない。最初の短篇「歩道橋の魔術師」で、靴屋の息子が歩道橋で靴の中敷きと靴ひもを売るときのことをこう語る。「靴ひもは鉄の欄干に結ばれたまま、風に吹かれてひらひらと揺れた。今思い出しても、それはとても美しい光景だった」靴屋の家に生まれて家業を手伝う少年は、『恋恋風塵』のなかの人物たちがそうだったように、歩道橋に吹いた風をつたえているのだ。

こうして、あらゆる行動が読者を商場に案内する。ひとたび回想という形で語られたならば、何事もたんなる個人的な振る舞いではなくなるのだ。生きているからこそ抱くメランコリーや、寓話に近づいていくような魔術的な場面は『歩道橋の魔術師』の魅力だが、それ以上に気になるのは、たとえば当時、ケンカウナギというあだ名をもつ厳しい父親のいる恋人と逢うのに、どんな裏口や裏路地がどんなふうにつかわれたか、といったことだったりする(「ギター弾きの恋」)。

最後の短篇「レインツリーの魔術師」で、呉明益を思わせる「ぼく」が侯孝賢の『恋恋風塵』に言及する。その映画をぼんやり思い出しながら読み進めてきた僕は映画の題名が出てきただけでどきっとしたが、ここでこの映画は『歩道橋の魔術師』と小説の外の「現実」に連絡をつけるような通路になってもいて、さらに驚かされた。

現実に連絡をつける。おそらくこれがマジックのこつだ。短篇「光は流れる水のように」では、「わたし」の旧友・アカがつくったこの上なく精巧な模型が登場する。子供時代に過ごした商場をそのまま縮尺したものである。模型は風変わりなやりかたで、それを見る「わたし」に過去を捉えなおさせる。このアカの模型のように、ひとを動かすマジックは多分、トリックがどこかで現実に根ざしたマジックだ。